各種講座

ボナペティ美湖」では、月に1~2回講座を開催しています。

その講座は、「歌声喫茶」、「歴史講座」、などです。

「歌声喫茶」は 「木下順造氏」の指導により、第1水曜日

「歴史講座」は 「丸山竜平氏」(元名古屋女子大教授)」の指導により、第4木曜日

詳細は、ボナペティ美湖へ(077-594-2036)

このコーナーは、先生方による、各種エピソードを載せていきますので、お楽しみください。

 

 

丸山竜平先生の歴史よもやま話

 

邪馬台国を近畿に求める説では、大和の纏向にその都を求めることで落ち着いています。この三輪山の山麓近くに邪馬台国時代となる2世紀末から3世紀半ばごろまでの大規模な遺跡と古墳の原初的なものが発見されているからです。このエリアには、初瀬川を挟んで唐古鍵遺跡が、先行する巨大な遺跡として知られています。唐古鍵遺跡とは断絶しながらも古墳時代へと継承された遺跡が纏向遺跡であろうと考えられます。唐古鍵は弥生時代の遺跡でありますので、原始共同体社会の遺跡です。これに対して纏向遺跡は新しい古墳時代の遺跡であり、階級社会の遺跡です。このため両時代の間には大きな断絶があり、共同社会が豪族長の支配する倭国へと変貌した訳です。こうした変化が3世紀初頭を挟んで前後の時代に始まったと言えます。

 他方、邪馬台国九州説となる筑後川流域ではどうした動きがあったのでしょうか。邪馬台国の有力候補である吉野ケ里遺跡では西暦1世紀となる50年ごろまで甕棺が盛んに用いられていました。しかし、この世紀の後半には大きなお墓も姿を消し、甕棺も一斉に使われなくなります。その理由は不明ですが、北九州に大きな変化があったことは事実です。最近、その吉野ケ里遺跡で新たな発見がありました。弥生中期の墳丘墓の横の旧神社地での発掘で箱式棺が発見され、テレビではその天井石を外していました。棺内は土砂で充満していました。副葬品の発見は今後のことです。10日後前後には棺内部を掘り上げるので明らかになるとしていました。近日何らかの発表があるでしょう。テレビを見ながらの感想ですが、二三予想してみました。一、甕棺ではなく箱式棺であったこと。板石を数枚、矩形に用いて棺を造り、内部に遺骸を収めて蓋石を置く形式です。弥生中期の甕棺が

何らかの理由で衰退したことを窺わせるものです。二、一棺だけなのか、近接してまだまだあるのか、報道では何も言っていませんでした。集団墓か単独墓か、知りたいところです。三、棺に伴い墳丘があるのかどうか、これも今後の発表に注目です。四、棺内の様子は時間待ちですが、A、棺内に土砂が充満していたのは、丁重な扱いをした箱式棺ではあり得ないことです。蓋石の廻りに粘土を回し、密閉するからです。遺骨も全身完全に残っています。吉野ケ里ではどうであったのでしょうか。最高位の身分のヒトの墓とは思え言ません。B、テレビでは朱の付着が映っていました。解説では鉛丹かどうか分析する、とっていました。魏志倭人伝では卑弥呼が中国王朝から鉛丹を50斤下賜されたと見えているからです。今しばらく吉野ケ里の報道を待ってみましょう。新たな発見を期待しつつ。(つづく)

 

 

第10回目  2023年2月1日

北部九州の甕棺文化が後退して後は、木棺や箱式棺が盛行する中墓制としては、近畿・東海地方で盛んであった方形周溝墓が広範囲に伝播しています。弥生時代後期初めには北部九州から瀬戸内東部・畿内へと勢力の中心部が東遷した可能性があります。つまり、対大陸との交渉の窓口が九州から瀬戸内東部へと変更があったかもしれない状況が生まれつつありました。これまでは大陸の文化や物資がまずは玄界灘へ上陸して北部九州へ優先的に伝来伝播したものが、いまや瀬戸内東部・畿内へとルートが大きく変化し始めた可能性があります。これまでにまとまって北九州へ入っていた青銅鏡も、むしろ瀬戸内から近畿にかけて後半にもたらされ始めた可能性があります。おそらく武器や農工具などの鉄製品も北部九州に独占されることなく近畿や東海にまで広範に伝来し始めたようです。弥生時代後期にはそれまで北九州に点在していた王墓と言えそうなものが姿を消します。著しかったものとしては、玄界灘に面する須玖岡本と伊都における弥生中期の王墓の存在でした。しかし、後退してしまったのちの弥生後期にはそれに代わる王墓がみえません。次の古墳時代に入ると伊都では平原方形周溝墓が築かれますが、伊都国に倭国の出先機関がありましたので、その職務についていた伊都国王の墓ではないかと思われます。この弥生後期のうちに、それまで北部九州で盛行していた青銅器の祭祀具であった銅矛も

 

近畿・東海の銅鐸同様に埋納されてしまいます。それに代わる祭祀も北部九州では見受けられません。瀬戸内や畿内では後に本格化する古墳の原型が出現し始めます。発生期の古墳時代を経て前期古墳へと発展するのですが、そうした揺籃の地に北九州がなることもありませんでした。その間に、北九州の大和への東遷の事実が無いのですが、物語りのみが生み出され、天皇家の起源譚として「日本書紀」に盛り込まれたようです。なぜ物語を創作したのか、ですが、書紀によりますと、天皇家の前に大和入りした豪族がいたようで、その豪族よりも大和を支配する正当な権利を持つ豪族として天皇家を位置付ける必要があったようです。血筋や、天孫降臨や、所持する宝器などです。物語は宮崎の高千穂の峯を出発点としており、必ずしも北九州というわけでもないのですが、北九州が文化の最先端の地であるためか東遷の始点と考えられていますが、それが具体的に玄界灘か、筑後川流域なのか、は問われていません。何分、邪馬台国の所在が決定していないので、東遷がどこから始まるのかは不祥な訳です。東遷の着地点は当然大和の橿原の地なのですが、これも考古学的に考えた場合には纏向遺跡となりますが、ここに東遷勢力が来た証拠は今のところありません。(つづく)

第9回目  2022年8月29日

邪馬台国東遷説()

 神武天皇東征説は他ならない邪馬台国東遷説を反映したものではないか、とする心情的な理解が多数を占めるようです。心情的とは、科学的にはあり得ないことですが、この説も無下にしたくないとする気持ちです。と言うのも、日本の文化が西から東へともたらされ、それが一般的と考えられる時代がありました。その一環で、国の起源も北九州にあり、北九州の王権が近畿畿内へ移動し、大和で王権を確立したとする東遷説が誕生したわけです。この説の背後には、天孫降臨といった歴史観があります。歴史ではなく神話なのですが、この考えも元来朝鮮半島にあったもののようです。天上界に近い山頂に支配者が降臨し歴史が始まるとするもので、真の歴史ではない訳です。こうした神話は歴史ではないとして、明確に区分しなければならないのですが、心情的に手が切れないのが現実のようです。しかし、前回にも触れましたように、西から文化が流入するとしても具体的な文物ともなれば、直接朝鮮半島から畿内へ伝来するものもあり必ずしも北九州経由といった訳ではありません。なぜなら、それだけ北部九州の威勢も失われていたと言えそうです。

 西暦57年に博多湾の奴国(なこく)は金印を中国の皇帝から貰っているのですが、その後僅かに半世紀後には、107年のことですが、奴国とは別の王が中国の皇帝へ使いを出しています。それも多数の奴隷を連れてです。博多湾ではもう弥生後期(西暦1世紀)に入るころには、甕棺(かめかん)文化も衰退し、勢力を失いつつありました。そのような北九州に邪馬台国を求めること自体に無理があるように見受けられます。しかし、それでも北九州邪馬台国説には根強いものがありました。(つづく)   

 

                                                                 

 

第8回目2022061

邪馬台国東遷説(2)

さきの2021714日に、邪馬台国東遷説をすこし書きましたので、今回はその二回目となります。と言いますのも、神武東征説はあまりにも現実離れしており、この説の主張は人気がないのですが、また実際に日本書紀では、神武天皇は瀬戸内海を東へ進むのに6年を要したとしています。九州の邪馬台国の東遷説は邪馬台国九州説の多くの方がその最終的な逃げ道としてこの説を唱えています。あたかも義経や大友皇子のようなもので、東へ落ち延び、生きながらえたと、「目出度し目出度し」の日本人の持つハッピーエンドをこの邪馬台国でも実現したいのでしょう。邪馬台国が東遷して大和政権を開いたとするものです。そう主張する根拠は、北九州では鏡が大切にされ、剣や勾玉がやはり大切にされており、こうした三種の神器の思想が、ヤマトの古墳群では受け継がれているのである、とするものです。

しかし、厳密には三種の神器としての剣・鏡・玉が弥生中期の北九州に約束されていません。また、弥生後期には破鏡の時代と呼ばれる、鏡を割った破片として用いた時代が古墳が始まる時代まで続きます。三種の神器が邪馬台国時代の九州にあったと言いきれない訳です。むしろ鏡を毀す時代があったわけです。こうした風習は九州だけではなく、九州以東でもあったようです。つづく

 

 

第7回目 (10月18日)

「邪馬台国問題は建国史の解明につながる問題である」

 

 邪馬台国や女王国など、魏志倭人伝には日本の歴史を断片的ながら伝えています。神話ではなく魏の国とかかわる見聞録と外交記録の編纂物です。3世紀に陳寿が編纂しました。陳寿は中国の歴史家です。記載の内容もできるだけ誤りのないものを目指したことでしょう。時に魏の時代とは後漢が滅び魏・呉・蜀の三国が鼎立していたころです。朝鮮半島の付け根となる遼東には公孫氏が台頭し建国を模索していました。後漢とよしみにしていた北九州勢力は後漢を継承した魏といままでどうり懇意に支持を受けたく願っていたでしょう。公孫氏の動向を窺っていた邪馬台国は公孫氏が滅亡するやすぐさまあくる年には魏に使いを出します。国交を開くチャンスと見たのでしょう。思い切って魏の都洛陽まで使者が行くことになります。魏もまた、邪馬台国・倭の女王国とよしみを結ぶことを待ち望んでいたようです。東海の大国を味方に引き入れようと考えていたのでしょう。そして北部九州ではなく近畿の勢力・邪馬台国を引き付けようとしたのです。そもそも後漢時代には奴国へは金印を与えるなどして博多湾の沿岸勢力には随分と加勢していました。しかし、57年につづく107年には奴国に代わり帥升なる王たちが倭勢力の王となりました。北部九州から近畿へ勢力の中心が移動したのです。もっともこれには帥升達も奴国同様に北部九州の勢力であるとの見方もあり、論争の火種になっているわけです。そうとしても奴国を支援してきた後漢が、新しい帥升達をそのまま引き続いて支援したとは考えられません。道義に反するからです。後漢の国史も帥升達を支援したとは記録に残していません。ただ、奴隷を多数連れて挨拶に来たとあるのみです。後漢はあくまでも博多勢力をこれまでも支援してきたので、ここでは静観していたのでしょう。ですから、厳密には倭国王帥升等と記された勢力の所在は不明な訳です。そうこうするうちに倭国では内乱が起こり、卑弥呼の擁立がありました。倭の最大の事件です。しかし、ここでも後漢は卑弥呼を支援するわけでもなく静観しています。そうでしょう、これまで北九州を手厚く支援してきたのですから、内乱で勢力がかわっても不用意に北九州以外の勢力に支援するといった態度は皇帝の信義にもとり出来なかったわけです。しかし、その時に倭からの使いはあったようです。そして中平銘の鉄刀などを女王の使いに渡したふしがあります。もっとも王の身分を認めたり印を渡したりといった正式な承認はしませんでした。奴国の行く末が気がかりであったのでしょうか。女王が中国の皇帝に正式に王と認められるのは後漢が滅び魏国になってからです。邪馬台国は晴れて東アジアの主権国に承認されたのです。その所在が不明なのですが、後漢が弥生時代に支援してきた地域と異なるところに新国が建国された可能性はこうして存在するのです。それが近畿・大和説です。

第5回目(2021年5月5日)

神武東征から邪馬台国卑弥呼東遷説へ

 これまでにはっきりしていることは、魏志倭人伝では邪馬台国へ上手くたどりつかないことです。方向を90度曲げれば邪馬台国畿内説になることは確実ですが、不用意に魏志倭人伝の記載を曲げるわけにはいきません。一字変更を認めますと双方が一字で済まないことになるからです。

 なぜ、文面から邪馬台国へたどり着かないのか、わけがありそうです。魏志倭人伝では中国からの使いは邪馬台国まで来ず、博多湾に近い伊都国で待機していたと書かれています。なぜ、倭へ来た使いを博多湾に近い伊都国に留めたのでしょうか。一説では当時倭国王が女王であることは中国に伏せてもいたというのです。皇帝は男子であり、女子であることはありえないとの中国の考え方に呑みこまれていたというわけです。卑弥呼には男王がいたことになっていたのでしょうか。そうした疑いもないわけではありません。詳細はまた教室で資料を基にお話しします。さて、

他の説は、中国が倭への進出つまり植民地化を計画していたために、倭では国情を中国に知られたくなかった、との意見です。大いにあり得ることだと思っています。というのも①朝鮮半島の植民地化が魏の皇帝のもとで進められたこと。②このため玄界灘の諸国ではいずれも「ヒナモリ」をおいて警備を厳重にしていたことが判明しています。のちの「サキモリ」の前身です。③また、邪馬台国では狗奴国と戦争しており、その実情は魏へ救援を求めたために中国の知るところです。倭が植民地化されるチャンスを魏は握ることになります。こうしたときも魏の使いは、軍官でしたが、伊都国に留め置いた、と云う事です。もしこの軍政官など魏の救援兵士が戦乱となっている邪馬台国と狗奴国の国境にまで応援に来ておれば、邪馬台国の所在地など確かな情報となって魏の国史編纂局へ届いたことでしょう。

 それにしても邪馬台国は魏の援軍を求めながら、軍旗をかざしてやってきた軍の要人達を邪馬台国へ入れなかったとは大層なしたたかな国であったと云う事になります。

 

 それとも邪馬台国は狗奴国との戦いに不利を強いられ、東遷したというのでしょうか。もっともこの東遷には民衆の移動が認められないので、極一部の首長層が移動したこととなりますが、しかし、王権が丸ごと東遷するのですから、その考古学的な証拠が欲しいものですね。(次号につづく)

 

 

第四回目  (2021年3月1日)

 

邪馬台国問題は九州説と近畿説とが大きな二説です。しかし、大半の九州説は、博多湾に近いところに邪馬台国を求め、かつまた、邪馬台国が最終的には畿内へ移動するとの見方をとっています。神武東征説がありますが、それの邪馬台国版とでもいえそうなものです。それというのも、確かに北部九州は先進国ですが、博多湾周辺はそれも突出しており、筑後川流域はもう問題にならないほどの格差が考えられています。筑後川では吉野ヶ里遺跡などもあり、こうしたところを邪馬台国九州説とする研究者もいますが、やはり博多湾が目立って先進性がみられるからでしょうか。とは言え、邪馬台国は玄界灘からでも「水行10日、陸行1月」とされており、北九州に邪馬台国を求めることも記載とは異なることになります。しかし、九州で邪馬台国が大国として認め得るには該当する地域が見当たらないと言った事実があります。そうしたやむを得ない選択から北部九州説が横行しています。

 他方で、邪馬台国の後は、一斉に古墳文化が開花しますが、その中心は畿内、大和であることは覆せません。となると、一案として、北九州邪馬台国説から邪馬台国東遷説へ、都を移したとの解釈が取られることとなったのです。日本書紀の神武東征神話がそのまま生かされ、九州から東遷したとみなしたものです。もっともその理由づけとして以下の点が強調されました。①北部九州の甕棺墓の時代に「鏡、玉、剣」が特別視されていたが、その神器が近畿の古墳文化に継承されているではないか。東遷の証である、とするものです。②また、そうしたものを副葬する風習も北九州から畿内へ伝えられたものだ。といった具合です。(つづく)

                                                                 

 

 

 

 

 

 

邪馬台国問題はここにあり 

 考古学・古代史のフアンを魅了する最大のミステリーは、邪馬台国問題であると言えるでしょう。最近は歴史フアンの層も幅広くなり、興味の先も邪馬台国問題に限られた時代とは異なるようです。戦国時代や山城などに興味を持つ人々も増えました。しかし、この紙面では邪の馬台国問題の真髄を気の向くままに綴ってみたいと思っています。時間のある方は御付き合いください。また、質問や疑問なども投げかけてください。お待ちしています。           

 さて、そもそも邪馬台国問題とはどのようなことなのか。考古学で言えば、弥生時代の終わりから古墳時代が始まる3世紀代、つまり200年代に実際にあった歴史の問題であると言えます。時代の変わり目となるいわゆる過渡期の時代にあたります。200年代でも半ば過ぎの60年代には巨大な古墳が築かれて古墳時代に入りますので、それ以前の問題であると言えます。また、西暦の二世紀末、つまり180年代前後で、弥生時代が終わりますので、そのあたりから邪馬台国時代と呼んでもよさそうです。まとめてみますと、180年代から250年代あるいは260年代までの一世紀足らずの間が邪馬台国問題の時代であったといえます。

 そもそも、この邪馬台国問題のことの発端は、中国の歴史書である「三国志」の「魏書」のなかに「倭」の記載があり、そのなかに「邪馬台国」なる国名が見出だされたことにあります。他にも「女王国」なる名称や、「投馬国」あるいは「狗奴国」が見えます。また玄界灘沿岸では対馬海峡にかけて6つの国名が出てきますが、そのなかに「奴国」や「伊都国」も見えます。

 クニグニは、倭に30か国があり、もとは100余国あったとありますから、随分とクニの統合が進んでいたことがうかがえます。そうしたなか、玄界灘に面する5か国は、およそ現在地が推定できるのですが、他のクニグニはどうしたことかことか、所在地がなぜか追えないのです。狭い島国ですし、せいぜい西日本で収まり、一部東海地域に及ぶとしても静岡県まででしょう。

 

 魏志倭人伝をいかにさかさまにして読んでも、邪馬台国へは辿りつけそうにないのです。このことが邪馬台国論争の起点です(つづく)

第二回目

 

 邪馬台国の所在地を混乱させているのは、故意か、それとも誤解から始まったものか、真相はわかりません。しかし、奇妙なことが幾つかあります。一つは、魏から来た使いが博多の近くまで来るのですが、そこで留まったというのです。魏の使いも倭の女王に合わずじまいであったと。その後狗奴国と争い、朝鮮半島にあった郡役所から来た使者も邪馬台国へは来なかったというわけです。邪馬台国九州説ですと卑弥呼はせいぜい筑後川流域に宮殿を構えていたわけですから、博多湾から徒歩でも近いものです。それがどうして訪れなかったのか、不可思議です。邪馬台国畿内説の場合には、ともかくも遠路であると主張し、使いを招かなかった、と言えばあり得ることです。なぜなら倭の女王国は中国大陸や朝鮮半島の勢力を大変警戒していました。後漢時代に公孫氏に植民地化されそうな事態があったからです。玄界灘の諸国は、邪馬台国時代にはヒナモリ名の副官を整えていたほどです。卑弥呼の所在地を知られたくない思いは九州説でも同様でしたでしょう。 このような具合で、伊都国から先は記載があいまいとなっているのは事実です。上から読んでも下から読んでも、邪馬台国へたどり着けないのが倭人伝なわけです。だからといって倭人伝に資料的な価値がないと言えるかと言えばそうではありません。日本には古事記や日本書紀がありますがいずれも西暦5世紀以前は歴史書の体をなすものではありません。とりわけ三世紀は倭人伝を良質の史料とみて、鵜呑みすることなく、活用することが賢明です。魏の使いが卑弥呼に接見しておれば、もっと倭人伝は注目された史書となったことでしょう。残念です。(つづく)

三回目

 邪馬台国問題、この問題をつくりだした魏志倭人伝が重要なことは、3世紀の歴史を紐解くカギを握っているからです。とりわけ三世紀は弥生時代の末から古墳時代のはじめにかけての日本国家の始まりです。旧石器時代から弥生時代の末まで、数万年以上経過しました原始時代が黎明期を迎えた歴史の節目といったところです。共同体社会が解体して、古墳社会が誕生してきました。そうした歴史の変わり目が実際にどのように展開したのか、具体的に検討できる同時代資料が魏志倭人伝であるわけです。日本には古事記や日本書紀など、どくじの歴史書があるとされていますが、とても三世紀には記述が及んでいません。とくに5世紀以前は、日本の歴史が分からず、とはいえ空白にはできず、紀元前の革命の年までは書きつなげなければならないとして、いろいろ創作を書き挟みました。みなさんは皇紀2600年という言葉をお聞きになったことがありますか、西暦はイエスキリストの誕生日を元年としていますが、皇紀は神武・天皇の橿原での即位を元年とするものです。昭和15年でしたか、皇紀2600年で、樫原神宮が創建されました。その工事で国道24号線が整備され唐古鍵遺跡が発掘される契機となったのです。歴史とはわからないものですね。唐古鍵遺跡は弥生時代を解明するカギを握る遺跡ですし、橿原神宮は、歴史を創作する記念碑のようなものですし、相矛盾するものが第二次世界大戦の中で偶然出くわしたわけです。さて、その古事記、日本書紀では五世紀以前は曖昧模糊としており、皇室も皇室以前の歴史や系図には関心がなかったようです。しかし、それでも日本書紀の編者は神功皇后を邪馬台国の女王卑弥呼とならべるように引用記載しています。卑弥呼は中国との平和外交を切り開いた女傑ですし、神功皇后は新羅へ攻め入ったやはり女傑です。書紀の編者は干支を二運引き下げて、4世紀の神功と並べて注として書き入れました。事績も、時代も、経歴も異なる女傑をどうして卑弥呼と並べたのでしょうか。考えをたくましくすると、神功皇后の和名息長足姫命にあるのではないかと・・息長氏は近江の豪族です。卑弥呼もまた、これからご紹介するように近江湖南のシャーマン一族の娘です。息長氏の祖先伝承に卑弥呼のことが伝えられていたのではないでしょうか。その兆候のあることを湖南の遺跡から紹介していきます。お楽しみに。